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神野美伽 オフィシャルウェブサイト by Toi La Vie

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神野美伽 エッセイ集

ファンクラブ会報誌などで綴ったエッセイを、少しずつですが、こちらでご紹介します。
心のお花

 新年のご挨拶状に「日々是好日」という言葉を書きました。
 毎日を暮らしていれば、良いこともあります。そうでないことも、あります。しかし、それらをひっくるめて良い日にするのは、自分のこころ次第ですよ、といったこれは禅の言葉です。
 四十半ばに差し掛かり、これからを生きて行く上で、心にしっかりと刻んでおきたい教えです。
 このごろ思うのですが、人間、心の拠(よりどころ)となる「良い言葉」を持つことはとても大事なことですね。

 最近、書店に行くと、驚くほど多くの「禅」の本が並んでいます。
 狄瓦スーッとなる禅の言葉
 牋譴らはじめる 禅
といった感じのものですが、大層売れてるのだそうです。
 誰もが、しんどい時代なのですね。
 何かに救いをもとめているのでしょう。
 知恵を授けて欲しいと望んでいるのでしょう。

 ただ、私はそこで「禅」というものと出会ったわけではありません。
 本当に不思議で、いま、感心していることなのですが、私は三十五年前すでに「禅」を「禅」とも知らず教えをいただき始めました。

 十歳で入門した少林寺拳法の道場で、一番初めに教わったことは「靴を揃えること」でした。
 足元を揃えたら、「礼」。少林寺拳法の場合、「礼」は「合掌礼」です。
 そして、次に教わったことが「清掃」でした。寒い夜も、夏の日も、雑巾を絞ってこれから稽古する道場の床を磨きます。拭くのではなく、磨くという心で清掃することを教わりました。
 さあ、それからやっと突いたり蹴ったり技の稽古が始まるかと思われるでしょうが、そうではありません。
 そこから、「座禅」を行うのです。
 毎回の稽古ごとに、必ずこのプロセスを踏みます。
 私は、週に三日。有段者になってからは週に四日の稽古を、デビュー直前まで続けていました。
 そして、これまた偶然の進路でしたが、進学した女子高校も浄土真宗の学校であったために、高校の三年間も登校、下校時には必ず「礼拝」を行いました。
 いま現在の、私の勝手な解釈でしかありませんが、これらの偶然と思っていた流れは決して偶然などではなく、私が人生を心豊かに生きていくために、子供の時分から大きな力が私を導いてくださっていたのだと思います。
 戻りますが、道場で靴を揃えることは犲分の足元をよく見なさい瓩箸いΔ海函座禅は狎鼎に考えなさい瓩箸いΔ海函9臂犬廊犲分以外の誰かを敬いなさい瓩箸いΔ海函N蘿劼眛韻犬任后
 子供の時分に種まきされたそんな禅のやさしい教えが、いま、この年齢(とし)になって私の心に小さなお花を咲かせ始めました。

| エッセイ | 00:40 | - | - | - | - |

 生まれたら、死ぬ。
 人も鳥も犬も猫も、花も魚もバッタもカエルもみんな死ぬ。
 しかし、今さらながらそれがどれほど切ないことか、思い知る。

 一滴、一滴、インクをたらすような悲しみが心の中を染めていく。
 ポタリ、ポタリ、じわり、じわり。遅くもなければ、速くもない、とてもいやなテンポで心を濡らしていく。
 私の心の隅から隅までがベッタリ紺色に染まったら、あきらめを許しいれることが出来るのだろうか。

 いや、あきらめない。
 あきらめられない。
 あきらめたくない。

 私の腕の中の小さな命を、終わらせたりなどするものか。

 心臓が弱り、白血病にもおかされたこの猫の命は、現在、毎日三本の注射と強心剤と血管拡張剤など何種類もの薬の組合せで綱渡りしながら繋げている。
 もうすでに点滴も出来なくなった今、私は迷うことなく残された次の手段を選んだ。

 「輸血をします。」
 「すぐ、お願いします。病院に血液はあるのですか。」
 「いいえ、ありません。」
 「では、どうすれば…。」
 「うちの猫の血を輸血します。型が合えばいいのですが…。」
 猫の場合、98%がA型で残り1%ずつがB型とAB型だそうだ。
 確か、そんなことを先生と話した気がする。

 輸血のための血液型判別検査を受けて型が判定したら、すぐに病院の二階から一匹の猫が下ろされて来た。
 人間のように輸血用血液のストックがない犬や猫のために、動物病院では必ず血液提供が可能な犬猫を、言わば<輸血用>として飼っていると、その時初めて知った。
 それはそれで、ショックだった。
 当然、若くて健康なその猫たちにもそれぞれ名前がつけられていて、私の猫は<たわし>という猫からその血をもらった。
 心から「ありがとう。」と思った。と同時に、とても心が痛んだ。
 私の猫の命のために、別の猫の血液を移す行為を<医療>という観念でとらえていいものなのか。
 人間は、人間以外の動物に対して、その<命>に対して、ここまで支配をして」いいものなのか。
 もはや、私の猫の命は猫のものではなく私の手の中、私の頭の中にある。
 私は、自分のしていることが恐ろしくなった。
 本来、終わる命を、終わっているやも知れぬ命を、終わるべき命を、愛情という名の傲りのもとに支配する。
 恐ろしい――――。

 それでも私は、明日も私は、私の猫に薬を与え、注射を打たせ、いやがる口から食べ物と水を流し込み、生きてくれと祈るのである。

| エッセイ | 00:37 | - | - | - | - |
もう結構です。

「もう、結構です。」

 正直いって、私には必要ないのです。
 一方的に溢れ出る情報。攻め込んで来るコマーシャルメッセージ。

 街中を歩いていると、ビルの一面もあろうかと思う巨大テレビジョンから四六時中、大音量で映像が流されています。
 たいていは、若いアイドルやミュージシャンのプロモーションビデオだったり、どこかの会社の宣伝だったり、他に……と思い巡らせても、その大音量で流されている映像の姿が何であったのか、意外と覚えていないものだったりします。
 そんなくせに、巨大テレビジョンの真近を仕方なく歩くときの、凄まじい音と発光ダイオードのエネルギーに、肉体が犯されているような不愉快さを、私の脳ミソは「勘弁してほしいよなぁ」と、いつも思うのであります。

 700系新幹線の車内表示が、座席番号から化粧室のボタンスイッチに至るまで大きく分かり易くなりました。
 高齢化が進む時代のサービス向上といったところなのでしょうが、頭上に取り付けてある電光掲示板まで何まわりか大きくなり、そこに流れる殆どがどこだかの会社の宣伝、そして、今どうしても知らなければいけないはずもないスポーツ速報や雑報です。
 先達て呆れたのは、その電光掲示板に「↑」と矢印が流れ、「上を見て下さい。」と文字が続きました。
 バカ正直に真新しい新幹線の天井に目をやった私も私ですが…。
 「その○○は、我が社が開発したものです。」という文字を読んだとき、いえ、読まされたとき小っ恥ずかしいというか「やれやれ。」と、酷い気分になりました。
 宣伝という種類のビジネスは昔から存在したものですが、過剰は恥ずかしいものと知るべきでしょう。
 サービスの過剰も、そろそろ考えるべきところへ来ているはずです。
 耳の不自由な方の為に、大きく分かり易い文字で「次は○○駅です。」と、静かに流れる電光掲示板であればそれで充分な気がします。
 それが、本来のサービスといったものでしょう。
 加えて、東京では多くのTAXIの後部座席に小型TVが付くようになりました。
 こちらは新幹線とは違いTVですから、ご丁寧に音声まで流れて来ます。一見、サービスの体ではありますが、流れて来るのはコマーシャルメッセージばかりの宣伝TVです。
 あの狭い空間、目の前50cm足らずでTVを見せられるなどという行為は、サービスどころかむしろ私にとったら苦痛のたぐいに属します。

 私は、思うのです。
 ニッポンの「街」、本気でそろそろ落ち着きのある「街」にならないものかと。
 先人たちが残してくれた歴史と文化を蔑(ないがし)ろにした末路がこのような「街」、このような「ニッポン」ではお粗末過ぎやしないかと。

| エッセイ | 00:34 | - | - | - | - |
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